発達障害と知的障害 | 自閉症児のいる暮らし

発達障害と知的障害

発達障害児の親達と話していて、いつも食い違うのは
「同じ障害児なんだから、同じ援助を」という部分で
す。

なんとかしのげるうちは、発達障害を障害と認めず、
子供が問題を起こし、もはや修正不可能状態になり、
いくところに困ったあげく、障害者枠で就職する為、
療育手帳を取得する人達。。。


いきなり、「同じ障害者なんだから」と言われても
ちょっとまってよと、言いたくなります。


障害があろうがなかろうが、人間の子育ては同じだ
し、「同じ障害者」になったほうが、援助があるの
で親としては、楽かもしれないけれど、なにか納得
できません。


軽度の発達障害児と重度の知的障害児を比べても、
意味ないのですが、なかには、障害の認定しなくた
ってやっていけるじゃないかと思う子も沢山います。


そういう子は重度の知的障害児を馬鹿にして、虐め
るので、変にプライドが高いようです。おそらく、
普通学級にいると、自分が虐められるのでしょう。
その子が学んだのは、優しさや思いやりや頑張る事
でなく、いい成績をとる為のノウハウと、弱肉強食
の理論だけだったのでしょうか?


「うちの子は障害者の中では、優秀でトップクラス」
なのでなく「損なわれている部分が少ないだけ」で
す。最重度の子になるほど、使える部分の方が少な
いだけですから。


今の狂った教育界に染まる事も出来ず、純粋さを保
とうと、あがき、苦しむ子供を育てながら、私達親
も、あがいています。

子供の為といいながら、親のエゴで、子供を追い詰
め、子供の障害だけを見て、子供の魂を見ないので
す。



障害児の親はエゴイストで、視野が狭いと批判され
がちですが、その批判は何も変えません。批判され
たところで、状況は良くなるどころか、かえって、
悪くなります。


障害児の親には、無条件で、子供への愛を要求され
ます。

確かに愛さえあれば、問題は問題でなくなるのでし
ょう。けれども、「子供への愛」を持てない親にと
っては、その愛は単なる「修行」にしかすぎません。


「障害児を持って、人生勉強させてもらった」とい
う言葉は、修行している自分自身に酔っているだけ
です。

親に「愛がない」という言葉は、簡単なうえ、親の
逃げ場がありません。保健婦さんたちには、魔法の
言葉です。それを言っておけば、まさに正しいし、
問題も解決できるのですから。


私は苦労しても、他人があからさまに解らない発達
障害なら、「ちょっと変わった健常児」ですませた
ほうがいいと思います。
どうせ治らないならそれで通した方がいいと思いま
す。


どのみち、今の社会では、「障害児」を治せません。

眼鏡をかけるなら見えるでしょうという場合の、眼
鏡になるシステムがないからです。


子供を追い詰めて、ノイローゼにし、親の期待をこと
ごとく破り、障害児認定されて、ほっとする親の気持
ちもわかりますが、かといって、状況がよくなるわけ
でもありません。


障害が個性となりえるのは、こういう場合だと思いま
す。


障害を持っていても、なんとか、一般社会で行動でき
る場合です。そして、それを本人が自己肯定できる時。


知的障害児の6倍以上いるといわれる発達障害児です。

同じ、障害児というなら、知的障害児の親の意見も聞
いてみませんか。権利ばかり主張する前に、親として
素朴に話し合えませんか。


壁作っていても不毛ですし、協力しあわなければ、ど
うしようもないのが、障害者の世界です。