オーダーメードの人生 | 自閉症児のいる暮らし

オーダーメードの人生

障害の程度はどうであれ、「障害児の親」という立場
で悩まない親はいない。健常児に近ければ近い程、親
も子も辛いだろう。障害が複合で、難病だったり、世
界に数人しかいないような障害児であったとしても、
しょうがないからと諦めたり、ふっきれたりはしない
だろう。


「わが子の障害」に対峙した時、生身の人間としての
ライフワークが問われることになり、そこから問題が
おこる。


中には、「子どもの障害があったからこそ、人生を
真剣に考えられた。本当の人生を楽しめた。子どもと
障害に感謝している」と本気で言える、素晴らしい親
に成長する人もいる。困難すら味わい、人生を豊かに
過ごす事の出来る余裕を感じさせてくれる。


が、新聞をにぎわす、虐待、子殺し、母子心中などの
あまり表沙汰にならない事件の裏には、育てにくい障
害児と悩む親の関係が多いことは知られていない。
世の中を悲観し、行き場のない絶望が悲劇を生む。


障害児をかかえ、悩む親へのアドバイスは、たいてい、
子どもを施設や病院に入れる事で解決される。少し、
距離を置き、専門職員や医者を間に入れ、親子が冷静
になることで、解決の糸口がつかめるのだ。ゆとりの
出来た親が、子どもから解放され、その出来た時間を
どう子どもに還元していけるかが、それからの課題と
なる。


支援を受けながら善い親子関係に変わっていくことが
福祉の基本だ。親がいるのに、親に替わって障害児を
育て、面倒をみることが福祉ではない。最近は脱施設
地域で生きると盛んに言われはじめているが、下手を
すると福祉の切り捨てになってしまう。まだまだ施設
は現実必要だ。

さて、障害児の親にもいろいろあって、障害に感謝す
る人生もあれば、施設を利用して障害児と距離を置き
ながら過ごす人生もある。障害児をかかえ、毎日生き
るの死ぬのの修羅場人生もある。中には、病院や施設
に入れっぱなしで、面会にもいかないし、子どもに内
緒で引っ越して、子を捨ててしまう親もいる。子ども
の数だけ親の人生がある。


私がいう「親の立場」は、障害児と共に毎日修羅場を
生きる親の事だ。それは、母親であれ、父親であれ、
共同生活者なので、逃げ場がない。書店にいっては、
障害児関係の本を買い求め、読みあさり、どうして自
分はこうも悩むのだろう、子どもの障害を認めていな
いのではないか、子どもを愛していないのではないか
と自問自答し、責め苛まれる、親の慟哭だ。


遠い地方の友人から電話があった。同じマンションに
住むとある夫婦の3人きょうだいの長男が障害児らし
い。引っ越した先々に障害児がいるので、友人は興味
を持ったのだろう。友人はマスコミの美談話しか知ら
ない。ところが近所の夫婦は障害を持つ長男をまった
く面倒みないばかりか、はやく死んでくれとばかりに
ほったらかしにしているのだと言う。


「どうすればいい?」と電話で聞かれた。
信号や交通ルールが理解できるような子ではないので、
いずれ自動車に轢かれてしまうだろうというのが、友
人の相談だった。私のところでななく、児童相談所に
連絡すべきなのだが。。と伝えると、児童相談所には
連絡がいっているが、親が無視しているらしい。
その子を轢いてしまったら、自動車側の方が災難だな、
と不謹慎にも私は思った。その後友人はまた転勤して
その土地を移ってしまったので、その後はどうなった
かわからない。どこかで保護されているだろうと思う。

その夫婦は障害児さえいなければ、幸せな家族であっ
たのだろう。

修羅場の毎日を過ごす障害児の親は、どうなのだろう。
「この子さえいなければ」
と思うのだろうか。

愛の反対の言葉は憎しみではなく、無関心だ。
きっと、わが子の障害で悩み、苦しむ親は、自分の苦し
みだとは思っていない。親は子どもだけに障害を押し付
け、自分だけは逃げられる立場にいるのだ。いざとなれ
ば自分だけは障害者ではないのだから。障害児をかかえ
て苦悩する親は、障害ごとわが子を受け入れる。よく、
子どもが苦しい立場になった時、親は自分が替わってや
りたいという表現をするが、かわりに子どもと障害を共
有するのだ。

親はどんな子どもであっても、その他人とは違う欠落し
た部分をなんとか埋めてやりたいと願う。生きていくに
は、あまりにも不都合な現状を変えたいと模索する。
が、現実はあまりに冷たく、不条理だ。


泣き崩れてわが子の不運を嘆き悲しむ親に出会うたび、
感じる事は、「この親は人生から逃げていない」という
手応えだ。「子どもには子どもの人生がある。子ども
次第だ」という子どもの自主性を尊重するという言い訳
で、逃げてしまう小賢しさがない。子どもの為になんと
かしてやりたいという気迫と覚悟を感じる。

人間は誰でも人それぞれの十字架を負って生きていく。
そんなものいらないと、投げ出す事はできないが、自分
をごまかし、見ないふりはできる。そして、自分のイメ
ージを拠り所に、「自分探し」に忙しい。

「本当の自分」を認める勇気は、修羅場をかいくぐった
実力から湧いてくる。
現実の中で、親子ともに逞しく、強くなって、いつのま
にか子を守る「親の立場」は不動のものになる。親が、
「親の立場」にあるとき、子どもは安定する。


自分の人生の醍醐味を他人は味わう事はできない。
世の中、見渡して見ると、「美味しいとこだけどり」の
人生のいかに多いことか。得をしているようで、ちっと
も豊かにならない人は、自分の人生から逃げているか、
思考停止しているかだ。「この子の障害さえなかったら
こんな人生ではなかった」と。

みっともなくても、しょうがない。障害児がいる日常は
綺麗事ではすまないのだから。
無理して「障害」に感謝しなくてもいい。
障害児は天使だと、美化する必要もない。
頑張って、善い親子にならなくてもいい。



他人と比較するから、苦しくなる。

この世には、ただ、人間達がいるだけだ。
存在する人間の数だけ人生があるなら、たとえ失敗とい
われても、人生を成就することに意味があるのだ。